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茲矩は産業の開発や振興に力を入れています。領内の広大な山地に目を向け、「村々切らざる木」の掟を定め、桑の木・漆の木・雁皮の木・桐の木・柿の木・榧の木・楮・椿の木・ちなひの木(エゴノキ)・あさかひの木(タブノキ)・山椒の木の11種を切らざる木として定め、栗の木や竹を大切にさせています。これは1596(文禄5)年2月4日付で村々に触書として出されたもので、気多郡八葉寺村(青谷町)百姓の所持と『稲場民談記』に記されています。
「亀井文書」の中に紙屋村(青谷町)に宛てた触書があります。これは「元武公(茲矩)手跡」として扱われ『道月余影』(明治45年2月10日発行)巻頭グラビアに掲げられています。
これには「竹木山林の盗伐を禁じ、もし盗伐する者があれば捕えて鹿野に差し出すことを命じ、盗伐した者が知人で、これを見逃した者があれば、その者も調べて罰すること」とあります。
薩摩(鹿児島県)から杉苗を取り寄せて鷲峰山に植えさせるなど、林業の保護育成につとめる一方、海外貿易で持ち帰らせたシャム(タイ)の稲・生姜や、明(中国)の茶・薬草などの栽培を進めるなど領民の生活を豊かにするための努力を重ねました。
鹿野笠の名で知られる鹿野町特産の菅笠も、農家の副業として茲矩が作らせたといわれています。畜産では湖山池の青島で驢馬・野牛を放牧し、長尾岬でも馬の放し飼いをしたといわれています。
夏泊(青谷町)には海女による漁法が伝わっています。茲矩は文禄の役で梶免村(福岡県)の助右衛門(漁夫)を召して士分にし、水先案内をまかせました。朝鮮から帰国した助右衛門は一旦梶免村に帰ったのち家内と共に鹿野町の茲矩を訪ねました。茲矩は、西は潮津浜(青谷町)から東は長尾境(青谷町・気高町境)までを漁業の場所と定めて、夏泊に居宅を建て与え夏泊8町四方を御免地(無税地)にしました。この助右衛門が夏泊の開祖ですが、妻はもぐりの名人で村の女達にもぐってのアワビ・サザエ・イガイなどの漁法を教えました。しかし最近は海女を家業とする人は少なくなっています。
因鹿焼という陶器が鹿野で作られていました。これは文禄の役で朝鮮に出兵した茲矩が帰国するとき、陶工を連れて帰って城中に窯を築いて焼かせた御庭焼だといわれます。しかし残っている菓子皿を見ると歪みがあり、これは陶土の良質なものが得られなかったのか、窯が良くなかったのかその原因は分かりません。2点の扇形の菓子皿を前にした所有者だった故安富寛兵衛翁の話を記しました。
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